海野 幹雄氏より、定期演奏会によせてメッセージが届きました

第3回定期演奏会に開催に際し、チェリストの海野 幹雄氏より、明日開催の定期演奏会によせてメッセージが届きましたのでご紹介します。

ソリストとして演奏していただく「チェロ協奏曲」について、ロシアの歴史的側面からも評した解説文となります。



【第3回定期演奏会によせて】

第3回目の定期公演を、全国でも有数のコンサートホールである「りゅーとぴあ」にて開催できる事、とても嬉しく思っております。

今日は、演奏者の立場から、今日の公演の前半の2曲目、ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲について、少しばかり言葉を記したいと思います。

この曲は、ぱっと聞いた感じは非常にコミカルで、音の遊び、という雰囲気があります。実際、ショスタコーヴィチ自身も、この作品の第1楽章に関しては「おどけた行進曲」という言葉を残しています。

しかし実は、曲の中にはもっと奥深い内容が存在しているのです。それを語るには、少しロシアの歴史に触れなければなりません。

ショスタコーヴィチ(1906〜1975)が生きた時代は、激動の時期でした。

特に1930年代にスターリンが実行した大粛清では、政治家たちが次々と逮捕され、銃殺刑となり、また一般市民も130万人以上が即決裁判で有罪となり、その半数は死刑、その他も強制収容所や刑務所に送られ、獄中で不審な死を遂げた者も多くいるなど、未だに全貌がわかっていません。

そういった国内での惨劇の様子を目の当たりにしながら、また相互監視や密告に支配される様な生活環境で、多くの文化人たちが亡命という道を選ぶ中、ショスタコーヴィチはロシアに残る事を選択し、言いたい事を言うと逮捕される危険性、書きたい曲を生み出すと逮捕される危険性と、常に隣り合わせな中、音楽活動に従事していました。

実際、活動が政府の目から見てうまくいっている時は、有名な音楽院の教授職に就いていた時期もありますが、作風や作品の内容が一度問題視されると、大っぴらに批判され、時には教授職を辞任に追い込まれた事もありました。

チェロ協奏曲第1番が書かれた1959年は、スターリンの死後でありつつ冷戦前の「雪解け」と呼ばれる時期であり、この頃は、若い時に作曲したものの発表できなかったいくつかの大作を十数年ぶりに初演や再演するなど、とても充実した時期でした。

しかしこの曲の中にある、第1楽章にも聞こえてくる強烈な音のぶつかりや、第2楽章から第3楽章(カデンツァ)にかけての苦悩の響き、第4楽章における、見えない何かと戦うかの様な強いエネルギー、そしてそれに打ち勝ったかの様に第1楽章のテーマが鳴り響いて力強く曲が締めくくられる様子などは、彼の人生、生き方が音に滲み出てきている様にも思えてくるのです。

こういった事柄を知った上で聞いていただくと、表面上の面白さ、コミカルさから一歩踏み込んだ、作品への共感をもってお聞きいただけるのでは、と思い、言葉を記しました。

1曲目の軽快なプロコフィエフ 、後半の壮大なジュピターと共に、今日の演奏会をお楽しみいただければ幸いです。

新潟 A・フィルハーモニック首席チェリスト
海野幹雄